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2024.04.18
コラム

シリーズコラム 「働くことのストレス」 【第9回】 ストレス解消のはずが別のストレスを生じさせているかも

動画視聴は効率的な娯楽ですが

前回のコラムでは、短期的な効率性と生産性を求めることに縛られ過ぎずに、適度にそこから外れることの大切さを提案いたしました。今回も引き続きこのことの延長でお話しをできればと思っております。私自身も含めてですが、携帯で動画を視聴することはすでに一般的な慣習となりました。多忙な時代、みる側のタイムパフォーマンス(タイパ)を考えて、動画配信サービスもあらゆる効率性を追求しています。たとえば、数十秒単位で物事の起承転結、フリからオチまでの展開を詰め込んだ動画を次々とみせてくれます。視る側は関心のある動画だけをみて、関心がなさそうなものは指先で飛ばしてしまうことも可能です。こうした娯楽の楽しみ方は確かに効率的ともいえるでしょう。

動画が日常の生活に入り込んでくる

私も楽しんでいる身ですから、このことに否定的ということではありません。ただ、一つ気をつけなければと感じているのは、この短い尺(時間)の中で喜怒哀楽といった感情を揺さぶる動画を続けてみることで、みる側の感覚に何か変化はないだろうかということです。いうなれば、みる側が楽しみやすいように効率性や生産性といったあらゆる工夫をしているのがこうした動画ともいえます。その一方で、私たちが日々生活している環境、たとえば家族や友人たちの間では、互いが常に効率性や生産性に配慮した会話ばかりがなされているわけではありません。むしろそうしたものがないのが自然ともいえるでしょう。

ストレス解消がストレス蓄積へとつながるとき

ところで、みる側が消費しやすく工夫されたサービスに慣らされていく中で、日常の生活においても同じような尺での反応を求めすぎたり、結論を急いだり、分かりやすさを求めすぎたり、いつしかそのようなものに染まりはしていないでしょうか。日常の生活の大切な人間関係にこうした感覚を追求してしまうと、お互いに摩擦や緊張を生み、そしてストレスが溜まっていくこともあるかと思います。ストレス解消の娯楽としてみていた動画の工夫が、いつしか日常にまで侵入してきた結果、現実の関係でストレスを蓄積していくとすれば、まさしく本末転倒になってしまいます。映画館で映画を鑑賞するときは先にチケットを買い求め、そこからの2時間は少なくとも座席にすわってじっくりと作品を鑑賞します。作品によっては冗長さや退屈を感じることもあるでしょうが、席を立ってしまう人は少数かと思います。しかし動画サービスですとその選択は指先一つです。私たちは利便性にどんどんと囲まれていくのですが、それが日常の生活にまで押し入って来て、私たちの感覚を変化させている可能性についてはもうすこし敏感でも良いのかもしれません。

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