『誰がために医師はいる~クスリとヒトの現代論~』 松本俊彦 (みすず書房,2021年)
一人の医師が精神科に何ができて、どのような治療をしているのかを、自分の経験を率直に失敗も隠さずに告白している一冊が『誰がために医師はいる~クスリとヒトの現代論~』(みすず書房)といえます。医師の松本俊彦先生は、精神科医、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部長という肩書になっており、そこからは硬いイメージが浮かびますが、内容はエッセイ風で読みやすいものです。
一般的に精神科が向き合う症状にもいろいろとありますが、松本先生は薬物・アルコール依存などの嗜癖問題(アディクション)といった重めの症状に真摯に向き合ってきた方です。ただ、最初からこれらを専門としようと思っていたわけではなく、医師となってから5年目に依存症専門病院に異動になったのが契機であったと告白しています。依存症の患者にアルコールや薬物を嫌いにさせるための特効薬などはなく、そのことが医師として何が出来るかを一生懸命に模索する機会となったといいます。
当初は、ある薬物依存症の患者に健康被害をじっくりと説明するもあまり効果がなく終わり、次には患者の血液検査で内臓が負担を受けている事実を医学的に示しそうとしても、アルコール依存症患者に比べるときれいなデータしか取れずに失敗。さらには、MRIで「脳の萎縮」が進行していることを示せば驚くだろうと試みるも、薬物依存症患者の多くにはアルコール依存症患者のように脳委縮の傾向がなく再度の失敗。最後にはそれが虚偽に近いとは知りつつも、アルツハイマー型認知症患者の萎縮した脳画像を患者に示して、薬物依存が続くとこのようになるのだと吹いたこともあったと告白しています。
そうして自信を失いかけていたときに、薬物依存症患者の自助グループのオープン・ミーティングに参加の機会があり、それが転機になったとしています。そこでは、患者や元患者が互いにコミュニケーションを取りつつ、思いや気持ちを吐き出しながらも支え合い、それを繰り返しながら薬物を遠ざけていく人たちの姿から多くを学んだといいます。実際のアクションとして薬物を遠ざけていくには、こころの治療が求められ、こころに向き合う大切さに気づかされた松本先生は、ここからアディクション臨床に没入していったとしています。
この本の中で医師が治療では相当の裁量があるとしつつ、だからこそ治療の中での患者との衝突や軋轢を恐れて、代わりに比較的容易でコスパもよい向きに流れることに警鐘を鳴らしています。そして著者はアディクション臨床、薬物依存症と向き合ってきた医師として、精神科が薬を出しやすい傾向について一章を当てて論じています。その上で、現状の精神科のシステムに限界があることを正直に述べてもいます。この本は実情の一つの側面を語っているとは思います。ただ、だからといって精神科がその実情を放置や追認することで終わっているわけではなく、改善のために日々努力を模索しているのもまた事実だと思っております。精神科にとっては戒めを与えてもくれる良き一冊です。