『精神分析という営み―生きた空間を求めて』 藤山直樹 (岩崎学術出版社,2003年)
精神科の看板を掲げる病院やクリニックで行われる治療と異なり、医師と患者の間であらかじめ契約が交わされて営まれる精神分析について書かれた本は限られています。その中でも、医師の藤山直樹先生が著された『精神分析という営み―生きた空間を求めて』は、契約に基づく精神分析のオフィス開業とその営みを描いた稀有な一冊かと思います。
藤山先生はかつて土居健郎先生からも指導を受けて精神分析の道を歩んでこられましたが、この本の冒頭で「精神分析の実践はとても生々しい営みである」と率直に告白しています。この本は精神分析に携わっている人に向けて書かれたものでもあり一般向けとはいえませんが、だからこそ藤山先生が言うところの生々しい営みについて筆力を駆使しながら述べてくれています。
落ち着きをもたらすような絵画、リラックスのできるソファー、きちんとした佇まいの精神科医がいて、患者が話していくことに耳を傾けながら、適度なタイミングで介入をして解釈やコメントが入り、そして精神分析が巧みに営まれていく。こうしたイメージが一般では持たれるかもしれませんが、この本で描かれている現実はそのようなものではなく、藤山先生自身が精神分析の過程で幾度となく患者との間で揺るがされて、緊張、動揺、葛藤が生じ、さらには飲み込まれそうになりながらも必死で踏みとどまって、仕事をされてきた記録の告白といえるような本です。
この本では「空間」という言葉の意味が広く使われており、それが医師と患者が物理的に共存して精神分析を行うオフィスという具体性と、医師と患者の精神的な関係性という抽象性の両方に及ぶので、この「空間」という感覚を読み手がどのように掴んでいくかが一つの鍵になるといえるでしょう。
この本ではもちろん匿名ではありますが具体的な患者や事例を登場させて精神分析の過程を描いています。時に何年にも及ぶ精神分析において、医師からすれば事前の準備や計画があっという間に崩れ去り、それでもどうにか糸口を見つけるべく努力している姿に触れられています。著者は精神分析の営みにおいては、医師と患者が常時明確に線を引いていられるわけではなく、言葉を借りれば「そこに関わる私のこころはその営みに巻き込まれ、私であることをいくぶん失っているとさえいえるほどのものになりうる。分析的な営みのなかで分析家は部分的に自分を失っているのである」としています。
精神分析が医師と患者の単なる「キャッチボール」になることはなく、どうにかして「空間」を維持しつつ記録をとり続けて、時には沈黙にも包まれながらも、医師はそれでも挫けずに「空間」をあらゆる角度から見直しながら仕事を営んでいく。この本ではこの生々しいことを書き出しています。
医師と患者の間であらかじめの契約と了解があってこそできる営みであるともいえ、病院やクリニックが行う保険診療の範疇は超えているともいえるでしょう。ただ同時に、病院やクリニックが行う通常の診療を営む側が、藤山先生が行っているような精神分析のあり方にどこまで近づいていくことが出来るか、そうしたテーマや課題を知らしめてくれる一冊ともいえます。