2026.07.31
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遠藤周作のエッセイ――笑いとこころの調和

小説とエッセイのあいだ

作家の遠藤周作さんが残された作品は、どれも文学として深いテーマを扱っています。代表作である『沈黙』や『深い河』などを読むと、人間の弱さや罪、救いといった容易には答えの出ない問題について、否応なく考えさせられます。
ところが、遠藤さんのエッセイとなると、その趣はまったく異なります。思わずクスリと笑うものから、苦笑、爆笑、時には失笑してしまうものまで、諸々の感覚が波状的に迫ってくるような作品が少なくありません。
有名なものには『ぐうたら人間学入門』がありますが、手元を見渡しただけでも、『ボクは好奇心のかたまり』『落第坊主の履歴書』などが並んでいます。題名からして、重厚な文学作品を書いた人物と同じ作家によるものとは思えないほどの軽さがあります。

日常の出来事を笑いに変える

遠藤さんのエッセイには、自分の失敗、家族や友人とのやり取り、病気や旅行先での出来事などが、面白おかしく描かれています。いま本人に確かめることはできませんが、これらは実際の出来事をどのくらい「盛って」書いたものなのでしょうか。
もちろん、すべてがそのままの事実であるとは限らないでしょう。ただ、重要なのは事実と寸分違わず書かれているかどうかよりも、ごく小さな出来事を笑いのある物語へと書き換えてしまう、作家としての視点にあるように思います。
同じ失敗をしても、ただ恥ずかしい出来事として抱え続けることもできますし、少し時間を置いて、人に話せる笑い話にすることもできます。出来事そのものを消すことはできなくても、それをどのような角度から眺め、どのような言葉で語り直すかによって、出来事と自分との距離は少し変わってきます。
遠藤さんは、そのような作業をすることがとても巧みな人だったのでしょう。本人にとっては困った出来事であっても、読み手には不思議なおかしみとして伝わり、いつの間にか笑いへと誘われてしまいます。

重いものを書く人の「ぐうたら」

『沈黙』や『深い河』のような作品を書き上げるためには、どれほど深く精神世界を掘り下げなければならなかったのか、私たちには想像することしかできません。人間の苦しさや弱さを考え続け、それを一つの作品として形にすることは、決して容易な仕事ではなかったはずです。
案外、遠藤さん自身も、そのような重い問題と向き合うことが大変だったからこそ、自分の身の回りに起きる出来事を面白おかしく書き、笑い飛ばしていたのかもしれません。
深刻なことを深刻に考える時間と、くだらないことをくだらないまま楽しむ時間。その両方を持つことで、こころの釣り合いを取っていたとも考えられます。
このように考えると、遠藤さんのエッセイには、人のこころの調和や、心療内科で行われる一つのアプローチにも通じる部分があるように思います。もちろん、笑えばすべてが解決するわけではありません。つらい出来事を無理に明るく捉え直す必要もありません。
それでも、一つの問題にこころのすべてを占領されないために、別の角度から眺めてみること、少し距離を取って言葉にしてみること、時には自分のおかしさを自分で笑ってみることには、一定の意味があるのではないでしょうか。

急がば大いに遠回り

AIなどによって物事が次々と効率化され、仕事や生活の速度が増していく中で、私たちは自分のこころまで、その速度に合わせなければならないような焦燥感に急き立てられることがあります。
しかし、機械や情報処理の速度が上がったからといって、人間のこころまで同じ速さで整理されるわけではありません。悩むこと、立ち止まること、どうでもよい話をすること、失敗を笑い話に変えることには、それぞれに時間がかかります。
遠藤周作さんのエッセイは、そのような時代にあって、「急がば回れ」どころか、「急がば大いに遠回り」くらいの感覚を思い出させてくれます。
書かれた時代が違うため、今の感覚からすると少しずれていると感じる文章もあります。しかし、そのずれを含めて楽しめることも、遠藤周作さんのエッセイの魅力の一つでしょう。
深刻な問題を深く考える一方で、日常の小さな出来事を笑い飛ばす。その両方を大切にした遠藤さんの作品は、効率や正解ばかりを求めがちな日々の中で、人間のこころには少しの無駄や遠回りも必要なのだと、静かに教えてくれているように思います。

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